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switch point 企画展

冨井大裕 展 いつものこと

2005.6.9(thu) - 2005.6.21(tue)
12:00-19:00 (最終日12:00-17:00)
水曜日定休

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制作における不自由と自由、および冨井作品の大きさについて

自由になるためには不自由をみずからに課さなければならない。不自由とは、何かを作品であらしめるために必要な条件のすべてである。それは素材であり、材料であり、形であり、プロセスであり、メディアであり、様式であり、概念でもある。
この不自由が大きければ大きいほど、作家は自由に制作ができる。だから、制作において問題になるのは、まずは自由よりも不自由である。
一方で、例えば、目的のためには手段を選ばないというのが自己正当化の方便にすぎないように、制作も不自由のためにあるのではない。手段はあくまでも目的から帰納される。制作は自己目的的な行為であると同時に、極めて恣意的なプロセスの上に成り立つ。選択肢は無数にあるにもかかわらず、目的のためには手段は選べない。
人間と同様に、身の回りの生活用品にも大きさがあり、形があり、構造があり、機能がある。冨井大裕は、物をそれとして規定し生活に繋ぎとめるこのような要素を 「不自由化」 し、制作においての大きな自由を得る。制作者の恣意性が介入する隙間がないほどにそれは物でしかないのだが、ふだん慣れ親しんだ生活用品ではなくなってしまっている作品に出会う時、むしろ物が冨井を選び作品化させたかのような転倒した感覚に、われわれはしばしばとらわれる。不自由によって道筋を
固められたのならば後はそこを自由に進めばよい。
冨井は冨井が知っていることしか知らないことを知っている。この強さが、自分の常識が誰にでも概ね妥当なものであろうという信頼を支える。冨井作品の特徴に、既製品を使用しているいないに関係なく、その物理的スケールが人間に比して
とくに大きくも小さくもないことがあげられる。しかし、部分と全体と形(イメージや属性、別の参照項を担保する形式)がきわめて過不足なく即物的でしかも常識的に連動しているために、それら中くらいのスケールの作品は、にもかかわらず、ただちに大きい。そして、芸術作品はすべからく大きくなければならない。少なくとも自然よりは。


藤田六郎

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