ドローイング/ダウンジング
器と水路。錯綜する水路の編み目も三次元に積み重なれば、水を含んだ海綿のように一つの容器になる。明確に閉じた外形を持つとき取りあえずそれは容器のように見え、分散した時それは水路になる。たとえば人は人としての形を持ち容器のようだけど、本当は密度の高くなった蒸気のようでもある。そうして、人はときどき世界のことを考えるけども世界は人の無い時間の方がずっと長かった。もしかすると人は世界が見る夢なのかもしれない。世界が人を夢見て、その夢の中で人は世界を確かめようとする。世界をダウンジングのように確認しようとする作業、ドローイングを描くということはそういうことでもあるような気がする。
上野慶一「容器と水路」について
今回、上野慶一は「容器と水路」と題されたドローイング展を行う。この題名はある意味で、近年の上野の仕事の内容を凝縮した言葉になっているのではあるまいか。この言葉について、彼によるコンセプトノートには次のように説明されている。「器と水路。錯綜する水路の編み目も三次元に積み重なれば、水を含んだ海綿のように一つの容器になる。明確に閉じた外形を持つとき取りあえずそれは容器のように見え、分散した時それは水路になる。」
近年の(あるいはそれはずっと以前からなのかもしれないが)上野の仕事の特徴は、絵画を継続的に制作していくときのシステマティックな方法にあるのではないかと思う。システマティックとはいっても、ある方法論にガチガチに縛られたものではなく、ゆるい意味での、そこで何が起こってもよく、なにものをも、偶然性をも許容するシステムだ、というべきなのだろうが。
今日、「絵」とは何か、あるいは「絵を描くこと」とは何か、という問いかけが行われ続けて久しく、それは20世紀あるいはもっと遡って近代絵画そのものの本質に組み込まれた問いであるのだろうが、その問いに対する幾つもの解答のうちのありうべき答えのひとつとして、次のようなことがあるのではないか。近代絵画の歴史とは、絵画から「主題」や「内容」が消失していく歴史であり、そうであるならば、主題や内容の代わりに外部から設定されたシステムによって絵画が自動的に描かれることも可能であり、むしろそのシステム的思考こそが、絵画の無限の豊かさを裏づけ、保証してくれるのである、と。カンディンスキーやクレーがバウハウスの教師になって改めて絵画とは何か、を自らに問い直さなければならなくなったとき、彼らの脳裏に浮かんだのは、まず、画面に置かれた「点」が連続して「線」になり、それが広がったり収束したりして「面」を作ってゆき、そうやってさらなる複雑化した局面をつくりだしてゆく、そうした点の連なり、道行きとしてのシステムこそが、絵画である、という考えであった。
最近クレーについての本を読んだりしていて、ふと気付いたのだが、そうえいば上野慶一の「容器と水路」のコンセプトは、クレーやカンディンスキーの絵画への考え方の、見事な展開ではないか。上野にはどうも器のかたちに対する形態的な好みへの異常な執着があるらしいのだが、とにかく画面上にひとつの取っ掛かりとして置かれたその器や杯のかたちが、枝、水路、腕、道、なんと呼んでもいいがそうした枝を伸ばして、別のかたちにつながってゆく。器のかたちだけの構成によってできている画面もあるが、そこでは枝はなくともやはり複数の器の空間的な位置、あるときはまっすぐに立ち、あるときは底を上にして逆さまにたっているそれらのさまざまな描きかたの器・杯たちの関係性が、絵画を構成しているのである。器のかたちだけでもいろいろなヴァリエーションがあり、そのつながり方も、まさに木の枝のようなものから、心臓をつなげる太い血管のようなものまで様々である。こうした自己増殖するシステムが上野の絵画を豊かにしているのであり、この豊かさの内実といえば、ひとつには絵具の筆触性が前面にあらわれ、触覚的な意味での絵画的な喜びが約束されていること、またひとつには画面がそれ自体で完結せず、絶えず画面外への別なヴィジョンへのつながりを想像させるような広がりを持っていること、さらにいえば、杯や器という形態が持つ(三次元的・伝統的な)イリュージョンへの微かな仄めかし(と、はぐらかし。これは先にも述べた上野のコンセプトノートの、器とみるか水路とみるか、閉じた外形か分散したかたちか、という点にも関係してくるだろう)が、やはり微妙な絵画的・視覚的喜びへと誘う、というようなことなどが挙げられるであろう。
さて、ここまで絵画の歴史という主題に沿いながらひじょうに大上段に上野の絵画について語ってきたわけだが、まあこれは様々にありうる作品への視点のひとつであり、(いまさらこんなことを言ってもなんだが)上野の絵画についてこんな理論的な考察は実は必要ではないのかもしれない…。 作家本人はA級・B級を含めて映画をこよなく愛し、さきにも下北沢のアングラな映画館の一角で作品展を開き、どうも怪しい自作の小説+挿絵本も制作しているらしい、というようなひとなのだから。近代絵画に主題や内容はない、と先ほど述べたが、上野の杯や器といったモティーフにも、実は主題らしい主題、内容らしい内容がたっぷりと込められているかもしれないのだ。何が?
器・杯の聖性、あるいはそれが空である、ゼロであるというところからくる何かの象徴、あるいは、夢と現実との転換性や二重性といった、そういったことども…。 上野の作品は、ある面からいえばシンプルでストレートだが、その意味などというものを考えだすと、おそらく作者自身も周到に作り出した、何層にも重なっている「はぐらかし」に出会うのである。上野の作品に触れて再確認できるのは、おそらく、絵画とはけっきょく言葉で言い尽くすことは決してできず、ただその魅力を言葉にしようと試みることでその豊かさ、広がり、謎について改めて気付かされ考えさせられる類のものであるという、周知の、しかし底知れなく深い事実である。それこそ、彼のコンセプトノートの言葉に従えば「世界をダウンジングのように確認する」方法として、存在と非在、世界とわたしたちの距離と関係性について、さまざまに世界を感じ、考えるひとつのきっかけとして、作品は在るべきなのだろう。今回のドローイング展は幾多の謎を秘めた上野慶一ワールドをあらためて概観する絶好の機会であり、筆者自身、絶大なる期待感を持って、その始まりを楽しみにしているところである。
倉林靖(美術評論家) |