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switch point 企画展

 

ぼやけた彫刻

 冨井大裕の作品を作品たらしめている彼の「作為」とは何か、それはどこにあるか。
 彼の近年の作品、例えば画鋲が整然と壁に押し込まれた《ゴールドフィンガー》、倒立したハンマーが隙間なく並んだ《woods》、エアキャップが積み重なった《air》、といったほとんど加工されない既製品を素材とした多くにおいて、「作為」は同じ単位の反復という手法をとって現れていることに気づく。しかし彼のこれまでの一連の作品の流れを見ていると、その手法が彼にとって必ずしも不可欠ではない、というよりむしろ、どうにかして反復することを避けようと様々に試みているようであることにも、同時に気づかされる。実際、一個の画鋲、一本のハンマー、一枚のエアキャップをしてあれらの作品を成立させることができるかと問えば、それは可能だと彼は答えることだろうと思う。反復は、敢えてひとつの単位だけを取り出して見せれば現れてしまわざるを得ないわざとらしさを嫌って消極的に採用された手法に過ぎないのではないだろうか。
 そして同様に、冨井の作品における既製品が、しばしばいわれるように、ありふれたものであるのにありふれていない仕方で登場する、というその現れ方も、必ずしも不可欠ではないのではないか?彼の作品は、ダダ—シュルレアリスムの類の意表の突き方に引き戻されるものではない。また、90年代後半に注目された日本の作家たちのある傾向— 既製品に思わぬ詩情を託す「インスタレーション」—とも異なるはずだ。
 冨井は、日常的なものをあくまでその日常から断ち切ることなく、できる限り日常的なあり方においてしかも作品たる喚起力を保ち得ること、意識されないものを意識されないままに見せようとすることを求めて試行錯誤を、「作為」を、続けているように思えてならないのだ。

 そうした冨井の作品のあり方を考える手がかりとして、例えば、透明なガラス板ごしに眺められた風景、というモデルを想像してみることにしよう。— いつもと変わることなく照らす日の光、雲、木々などで占められた風景。ふとした瞬間、視線はガラス板の中に紛れ込んだ気泡や、そこに刻まれた小さな傷などを捉える。それらに目を移せば当然焦点は手前に切り替わり、それまで像を結んでいた景色は霞んでしまう。気泡や傷と風景の双方を、まったく同時に経験することはできない。
 冨井が作品としているのは、ここでいえば風景だ。しかし彼の「作為」は、この気泡や傷のように、手前の中空に漂う位置にあるのではないか。作品として差し出されているものそれ自体への直接の視線を冨井は静かにさまたげ、逸らせてしまう。そのためにこそ彼は、細部に眼を凝らしても無意味な(近寄ることを求めない)、分かりきった素材を使うのだし、刺さっている・立っている・重なっている・・・・・・といった(離れて眺めるときに認められる)「状態」に強い関心を寄せる。反復されたにせよ思わぬ扱い方をされたにせよ、そのものの姿は実は二次的な要素であるようにすら思われる。気にすればするほどぎこちなくなってしまう「歩き方」を頭の中に探るような、あるいは、目覚めながらに見えているものを忘れさせてしまう白昼夢のような、こちらの身体に密着した、むず痒くもあり心地よくもあるおぼろげな衝動、ちょっとしたトリップ。それが少なくとも僕の、冨井の作品体験のもっとも素直な印象だ。いずれにせよ冨井の作品の類例のない新鮮さは、作品の中ではなく外部に、しかも遠く隔たった場所に「作為」をまとわせる独特な間のとり方にこそある。冨井大裕の作品に焦点を合わせることができない。

成相肇(府中市美術館学芸員)

 

冨井大裕 TOMII Motohiro

1973年新潟県生まれ。1999年武蔵野美術大学大学院造形研究科彫刻コース修了。
日用品の使用と原理的な彫刻の両立を試みる希有な作家として知られる。
これまでに個展、グループ展多数。
最近では、埼玉県立近代美術館での「ニュー・ヴィジョン・サイタマ 7つの眼×7つの作法」に参加。
現在、アーカス・スタジオでの個展「企画展=収蔵展」を半永久的に開催中。

 

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