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switch point企画展

冨井大裕展 みるための時間


 

 

みるための時間

私は、ものを見るとき、何を見ているのだろうか?

色、形、素材、サイズ、重さ、空間、ものが常識的にまとっているイメージなど。要素は様々だが、どれかひとつだけを見ているということはあり得ない。

例えば、「形」を見ているということは、それ以外の色、素材、サイズ、重さ、空間、ものが常識的にまとっているイメージなどが集まってできた「形」を見ているということだ。

他の要素の場合も同じことが言える。
つまり、見るということは、ものの全てを見ているということになる。
しかし、ものは常に同じ姿を見せている訳ではない。違う要素から見れば、ものは違って見える。

また、同じ要素からでも、違う状況で見れば、ものは違って見える。
つまり、見るということに、同じものを見るということは含まれない。私はものから作品を作り、それを人に見せている。

見られなくてよいものなどこの世界には無いと思うが、その中で作品は見られなくてはならないものとしてこの世界にある。

作品は特別なものではない。見られるという機能ー存在理由を持っているものであるだけだ。見られるものー作品を、見るための場所で、ただ見ることに集中する。展覧会とはそういう時間です。

冨井大裕


〈なり〉で

 あるとき冨井と彼の作品の話をしていて、興味を惹かれたことばがある。そのとき彼は何度か、「あとはなりで」と言ったのだった。「なりゆきにまかせて」という程度の意味だろう。「こうしたら、あとはなりで」、というふうに使う。なるほど、潰された針金やクリップで繋がれた鉛筆は、たしかに無造作に、したがって必然的に、ゆるやかで、ところどころ不規則な曲線を形作っている。
 もちろんそれは、冨井がロマンティックにも偶然にやってくるなにかの効果を当て込んで、ある時点で制作を止める、ということを意味しているのではない。むしろその逆に、彼がどれほど精妙に素材を選び、それをぎりぎりまで調整しているか、その作品を見れば明らかだ(アルミホイルのような素材を、あの大きさで自立させるために必要な判断力と技術を考えてみてほしい)。しかも、ちょっとした手なぐさみのように
見える作品を展示するときでさえ、彼は端整な台をつくり、場所を勘案した数多くの工夫を施し、さらに可能なときには、こうした展覧会のための文章さえ自分で依頼する。作品をよく見せるものであれ、あるいはだめにしてしまうものであれ、そこには偶然の入り込む余地など、ほとんどありはしない。
 だから、たぶんその作品について、彼が「あとはなりで」と言えること、それは彼が、素材となった日用品のすべてを理解し、それに対し必要なことをすべてし終えた(そして不必要なことをまったくせずに終えられた)ということなのだろう。つまりそのあとなにが起ころうと、自分がいま作りだしたもののエッセンスはすこしも変わることがない、そう確信したということなのだ。

 四年前、冨井がこのギャラリーでの個展を始めたのは、彼がゆっくりと作風を変えているときだった。そのとき今回のように小文を依頼された筆者は、現在の作風につながる日用品を手がかりにした作品について、「事実上事物をゼロから作り直す」その方法を評価しつつ、そこには「慣れ親しんだモノがふいに未知のそれに変わるときに感じられるあの異様な感触」がすこし欠けているかもしれない、と注文をつけた。
 いま、その判断を修正したい。たしかに彼は、事物をゼロから作り直すだろう。けれどその高度な達成、つまり「あとはなりで」とあっけらかんと言えてしまうほどに、その再創造のプロセスを彼がやうまくやりおおせたときの作品は、異様どころかむしろそれが当然のように見える(パンチング・メタルとスーパー・ボールはこう使うのが当然のように思える)。そして、異様ななにかを作ってみせるよりは、こうして日常の文脈からは外れているはずなのに、そちらのほうがむしろそのものの「当然」のありようなのだと納得させる作品を作り出してしまう、そんな冨井の能力のほうに、筆者はいま、どこか得体の知れないものを感じつつある。

林 卓行(美術批評・玉川大学芸術学部准教授)

冨井大裕 TOMII Motohiro

1973年新潟県生まれ。1999年武蔵野美術大学大学院造形研究科彫刻コース修了。
日用品の使用と原理的な彫刻の両立を試みる希有な作家として知られる。
これまでに個展、グループ展多数。
最近では、埼玉県立近代美術館での「ニュー・ヴィジョン・サイタマ 7つの眼×7つの作法」に参加。
現在、アーカス・スタジオでの個展「企画展=収蔵展」を半永久的に開催中。

 

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